私と株式投資の出会い

 特に何の教訓も含まれない、ただの思い出話。その筆致は詩的ですらない。

 人間にそれぞれ独自のOSが実装されているとするのなら、私の主要なソースコードは複式簿記、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』、そして蓮實重彦の行が存在感を放っているだろう。いずれも私が世界をどう捉えてどう振る舞うかという点に関して多大な影響を及ぼしている。
 最も偏差値が高いという理由だけで大学進学に法学部を選んだ私は、入学1ヵ月でその学問が自分には致命的に向いていないことを確信した。見切りが早いのが長所の一つだ。その頃、遅れてきたハスミストとして新たな生を受けたばかりの私は長所を生かして早速勉強に見切りをつけ、映画にのめり込んだ。映画と名がつけば国、時代、ジャンル、予算を問わず手当たり次第に観た。平均して1日1本以上のペースで鑑賞していたので、年間400本はこなしていたはずだ。何を得られたか。沢山のことを得た。だが社会的に最もわかりやすい形としては、留年という結果が与えられた。
 親への申し訳なさから一人暮らしを止め、残りの大学生活は実家通いに切り替えることにした。生活圏と人間関係が変わったこともあり、留年時代は朝夕の犬の散歩以外、何もやることがなかった。有り余る時間は映画だけではとても埋めらるものではなく、切実な問題として私は目の前にある膨大な退屈さを処理する必要に迫られた。手元にはそれまでの4年間のアルバイトで貯めてきた50万円があった。これなら噂に聞く株式市場という「ギャンブル場」で遊ぶことが出来そうだ。そう思った。
 2003年、Eトレード証券に口座を開設し、ソニー株を買うことで私は投資家として爆誕した。その頃、銀行株は不良債権処理が進んでバブルの後遺症から立ち直りつつあり、目を疑うほどの急騰を連日にわたって演じていた。こんな大型株が短期間で何倍にもなるなんて株式市場というのは噂に違わず刺激的な場所だという思いを深めたのをよく覚えている。
 投資に関する情報は主にYahoo!掲示板で仕入れた。第一中央汽船が来ます、という匿名の書き込みを見て試しに買ってみると、本当に来てびっくりした。銀行株で一日5,000円のサヤを抜いたことを母親に自慢したりした。買う銘柄は何でもよかった。私はサイコロを振れば得したり損したりする新しいおもちゃに夢中だった。株価は生き物のようで、映画のように面白かった。それ以外の非映画的なもの-それは例えばビジネスモデルだとか、利益だとか-には一切興味が湧かなかった。何故だか知らないが、自分は本質的に芸術家なのだという自負を捨て切れておらず、その自負が純粋な経済活動にのめり込むことをどこかで拒絶していたのではないか。今となっては当時の不可解な行動をそう自己分析するしかない。
 そうこうしている間にあっという間に1年が過ぎ、私は内定企業に無事入社し、そして工場原価に配属された。
 経理! 数字をちまちま計算するあの!
 幸運にも法学と違い、配属後1ヵ月で自分には原価計算が向いていることを確信した。工場近辺の牧歌的な田舎暮らしも同僚とガールフレンドにも恵まれ大変楽しかった。原価計算の魅力を抽象的に表現すると、そこに唯一絶対の正解がなく、創意工夫で同じ事象をいかようにも表現できることだ。一つの事象を多面的に捉え、表現する。自称芸術家にはぴったりの仕事のように思われた。(経理全般を経験した今でも、一番奥が深いのは原価計算だと思っている)。
 しかし原価計算を通じて経理の楽しさを知ったからといって、それが株式投資に活かされることはなかった。私にとって株式市場はそれでもまだ、株価の変動を楽しむ場所でしかなかったのだ。
「株式投資で儲けるなど簡単だ。適当な株を適当に保有しているだけでいいのだから。」確かそんな状態だった。もちろん、自然界の脚本は良くできており、調子に乗った若者にはベストタイミングで挫折の時間がやってくる。みなさんご存知、2008年の金融危機だ。その後のことは以前に書いた。
 こうして私は2009年あたりに改めて株式投資と出会った。
 「当時と比べて成長した。」などと気味の悪いことを主張するつもりはない。今の自分が昔より優れているという考えはひどく傲慢で愚かだ。単に新しい見方を手に入れた。ちょうど、冒頭に挙げた著作に接した後のように。ただそれだけの話。

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